■ 八王子市夢美術館「林静一展 1967〜2007」 トークショー
2007年12月16日(日) 於 いちょうホール
出演 林静一/ 夏目房之介/ 山下裕二/ 湯浅学(司会)
湯浅 よろしくお願いいたします。今日は林静一さんの新作漫画「夢枕」を中心にということで、お話しいただきますが、林先生を皆さんどこで知ったか、作品とどこから触れられたかという話からお伺いしたいと思います。夏目さんから、どうでしょうか。
夏目 僕はまったく「ガロ」からですね。1964年創刊の、白土三平を中心とした、今で言うと同人誌に近いような雑誌だったんですが、それをみつけて購読してました。67年に彗星のごとく現われた、林静一と佐々木マキという名前の漫画家が、今まで見たことの無いような漫画を描いて、当時、すごい新人が二人も出てきちゃったなと。つげ義春が漫画の世界をガラっと変えて、そのあとにお二人が出てきた。それが、ちょうど17歳ぐらいでした。自分で漫画を描いていたので、少し後から影響を受けた漫画を描きだした。それ以来のファンです。「赤色エレジー」という、おそらく漫画史上初めて同棲を描いた連載漫画、それに影響されたわけではありませんが、その後、僕も同棲し始めました。ですからもう他人事とは思えないように読んで、その後の美人画も大好きなので、今日は難しいことはわかりませんが、とにかくファンとして参上しております。
湯浅 山下さんは。
山下 えーっと、67年というと、わたしは58年生まれですから、まだ9歳で、9歳でさすがに「ガロ」読んでいる子はいないですよね。たぶん紙の漫画を読む前に、あがたさんの歌の「赤色エレジー」がヒットして、あれが72年?中学生ですから、それを通じてその原作者としての存在を知ったというのが最初だと思います。その直後、高校一年くらいのときに「ガロ」を読み始めるんですね。たまたま本屋でつげ義春さんの「ねじ式」と「紅い花」の漫画文庫を買って、修学旅行の帰りの夜行列車の中で一睡もせずに読んで。それ以来ガロの世界にズボズボとはまりまして。広島で一軒しか売ってない「ガロ」を買うようになり、そこから遡って行って、林さんのそれ以前の作品なんかも読むようになったという次第です。
左:「ガロ」1971年8月号表紙 発行 青林堂
右:「ガロ」1971年12月号表紙 発行 青林堂
山下 ませてますねぇ。
湯浅 昔から疑問だったので最初にお聞きしますけど、林先生はアニメを手がけていらっしゃって、そもそも何で漫画を描こうと思ったんですか?
林 東映動画というところにいましてね。そこは非常にクリエイティブな集団ですから、いろんなことにアンテナ張っているんですね、仲間内でいろいろ情報交換していた。ある日ある男が、「ガロ」っていう雑誌を持ってきましてね。当時、動画課に70人ほどいましたけど、ほとんどが読むようになりました。発売日になるとみんなシーンとしているんですよ。そうすると課長さんが見回りながら、シーンとしているからみんな一所懸命仕事していると思ったら、なんだお前たち「ガロ」読んでんじゃないかって。(笑)我々は子供文化の中で映像作っていましたから、漫画もそういうものに近いものだと思っていたのが、白土さん、水木さんが出てこられて、大人が読める漫画というのがものすごくショックだった。すぐ、つげさんも出てこられた。その頃、映画界がテレビに移行する時期です。鉄腕アトムが放映され、これは子供向けアニメーションが有効だということで、テレビ短編をどんどん立ち上げ、需要と供給が追いつかない。それで東映動画が、仕事の効率を上げようと契約者をどーっといれたんですよ。それは「赤色エレジー」の土台、背景になるのですけど。契約者というのは1日10枚とか、30枚描けますよって、個々に会社と契約をして入ってきた方々で、われわれ社員と、どうやったらうまくやっていけるか、という話になりました。それで、みんな「ガロ」を読んでいるでしょ。漫画をひとつのテーマにして集めたらどうだっていうことを考えて、社員3人であと20人くらいは集まるだろうと思ったんですが、2人しか来なかったんですね。(笑)その同人誌を5号出しました。私は言い出しっぺだけれども、まったく描かなくって。宮崎駿は描いてきましたね、半年後輩の社員だったんですけど、20枚描いて来ましたよ。「となりのトトロ」と同じような感じでしたね。そこから、じゃあこの連中で、「ガロ」に応募しようという話になりました。ただ応募したのは僕だけで、ほかの人はみんな応募しなかったようですね。
湯浅 応募した後、漫画の活動になるわけですが、漫画家としてやっていこうということは、どこら辺まで考えていたんですか?
林 「ガロ」は、夏目さんがおっしゃったように同人誌みたいなもんでしょ。これで食えるとは思わなかった。しかし「赤色エレジー」の主人公のように、漫画描きたいって言いながらアニメーターっていうのではなかったです。何してたかっていうと、東映を4年でやめて、外へ出まして、虫プロの「W3」という、それの総監督になって、そのパイロットを作ってました。その途中くらいですかね、私のアニメーションの師匠、月岡貞夫さん、この人はアニメーションの腕が世界的に知られていて、あの当時フランスのポール・グリモーが、カンヌ映画祭で受賞してた「やぶにらみの暴君」を、やり直したいって月岡さんにオファーが来たんです。世界中のアニメーターを集めてフランスで作りたい。それで、私もフランスのほうへ行かないかって、月岡さんに言われてね。もし行っていたら漫画描かなかっただろうな。
湯浅 そこが分かれ目なんですね。
林 いまごろ電話で「アロー、アロー」とか言ってね、そういう生活だったかもしれない。(笑)それと日本テレビの仕事が僕は多いんです。あの頃「ガロ」に描きながら、テレビの製作会社をしていたんです。
夏目 僕らね、「赤色エレジー」読んでいると、林さんは絶対ああいうビンボーな同棲者だと思っていたんです。そうじゃないって、図録のインタビューではじめて知りました。林さんのいらした頃、東映で労働争議ありましたよね。その流れで「太陽の王子 ホルスの大冒険」ができるんですよね。あれ、あとで見ると明らかに「カムイ伝」ですよ。実はアニメーション側から漫画とアニメの影響ってほとんど語られていない、今のお話って、これは貴重で、たぶんアニメに対する漫画の影響とか、アニメと漫画の相互影響の問題ってこれから話題になると思う。
湯浅 えぇ、そうです。特に60年代の話ってほとんどわからない。
夏目 60年代の文化って「ガロ」とかアングラ芝居とか、いろんなものが混ざり合っている。林さんの画業もそこから出発していて、みなさん展覧会見られるとわかるけど、芝居のポスターであるとか。で、80年を境に線が変わりますよね。70年代までの線って、僕なんかそれを見るといまだにワクワクするんですよ。線の中に荒々しさっていうか、世界を引っかいている感じがものすごく残っているんですよ。80年でぴたっと線がきれいになる。透明な線になるんですけど、あれは意識されて?
林 絵というのは、長所でもあり欠点でもあると思うんですけど、美しいことを描こうと思うじゃないですか。あえて醜い方向に対象を描くというのもありますけど。心地よい、いい線を描きたい、そうなります。するとやっぱり、なんとなくそういうふうに向いていくんじゃないでしょうかね。
夏目 僕は林さんの絵をずっと拝見していてですね…
林 怖い怖い。(笑)
夏目 林静一さんの絵のポイントはスケベだと。
湯浅 それ同感です。
夏目 80年を境にスケベが変わるんですよ。
湯浅 きれいなスケベになる。