「水木しげるの世界 ゲゲゲの展覧会」特別インタビュー

『ガロ』元編集者・高野慎三氏に聞く ー 『ガロ』の時代 ー

『ガロ』の独自性―貸本漫画の実験精神

― 『ガロ』は雑誌ということで『忍法秘話』から体裁が変わって出てますけれども、編集の方針というのは、あんまり他の雑誌のこととか意識していないですよね。中身は貸本漫画と同じで、流通の形態だけ変えてったというような・・・。月刊雑誌はもちろん、すでに『マガジン』『サンデー』も出ていましたが・・・。
そうですね。『ガロ』の編集方針はもともとは白土さんが決めていたでしょうから。
― ずっと「カムイ伝」の連載が続いている間は殆ど変わらないスタイルですね。それで、『ガロ』は白土さんの呼びかけで新人を募りましたけど、水木さんも漫画家講座を連載したり・・・、そういったことは他の雑誌でもあったんでしょうか?
新人募集はどこもやってましたけど、でも、それは白土さんが唱えた既成の漫画観を打破するというとは全然違いますよね。普通の新人募集ですよね。そういう意味では白土さんのように、ああいった檄を飛ばすというのは珍しい。
― 『ガロ』の実験的な土壌というのは白土さんがそういう雰囲気をつくったということですね。
そうですね。ただ、貸本漫画の中にはたしかにそういう実験的な作品もあったんですよ。実験的なものは一般少年誌には載らない。抽象的作品というか観念的作品というか。白土さんはそういう作品も読んでいたんでしょうね。そういう作家をも『ガロ』に吸収しようとしたんでしょう。だからメッセージを出したんでしょうね。つげ義春さんを呼び寄せるというのも白土さんの意思だったでしょうからね。白土さんは貸本漫画でつげさんが生活者を描いた暗ーい話が好きなんでしょうね。

漫画プロダクション―新しい漫画制作スタイル

― 『ガロ』直接の話ではないんですが、漫画制作にプロダクション制というのがあって、白土さんは赤目プロ、水木さんも水木プロダクションをつくりますが、プロダクションというのは当時の漫画制作として一般的だったんでしょうか。関西出身の劇画工房の作家では、さいとう・プロダクションがあったりとか。
少年誌のほうではあまりないようですね。みんな貸本漫画の人たちですね。佐藤まさあきプロダクションもそうだし、永島慎二さんもそうなってました。
― その後、少年誌でも永井豪とダイナミックプロとかありますが。
ありますけどね。もっとあとになりますよね。
― さきがけというと?
劇画工房の人たちよりも白土さんのほうが後でしょう。佐藤プロ、さいとうプロ、そっちが先ではないですかね。
― 手塚さんのプロダクションは、その頃はアニメのほうですよね。
漫画作画のプロダクションというと、さいとうさん、白土さんでしょうか。

『ガロ』は同人誌?―「カムイ伝」の終了と『ガロ』第二世代

― 「カムイ伝」の連載が1971年の7月号で終了します。これについては・・・。
白土さんは半年前から第一部を終わりにすると言ってますからね。もともとは続けて第二部をやる予定だったと思います。第二部はアイヌ民族の話ですね。第三部は明治維新だったでしょうか。ただ白土さんが「カムイ伝」を描いている5年の間に社会情勢が急激に変わっていったので描くのを中断したんでしょうね。構想を改めなきゃいけないと。
― 林静一さんが後を継ぐとおっしゃってましたけど。
本当ですか?何の?
― 「カムイ伝」の近代・・・、もちろんそのまま書くということじゃないと思いますけど。そういう意図というか意識というか、継ぎたいとおっしゃってました。
うーん。(笑)
― 当館での個展のときに夏目房之介さんや山下裕二さんとのトークショーで話していました。
本気で描くって言ってましたか?
― 本気な感じはしました。それで「カムイ伝」が終わって、『ガロ』では林静一さんですとか佐々木マキさんとか、新しい方たちが中心の描き手になっていきます。第二世代と言っていいんでしょうか。
そうですね 第二世代ですね。鈴木翁二さんとか安部慎一さんが続きますね。
― 林静一さんが『ガロ』に投稿しようって、当時勤めていた東映動画(現東映アニメーション)で呼びかけて、宮崎駿さんたちと同人誌を作ったそうですね。林さんは『ガロ』には投稿というか持ち込みですか?されたわけですけど、他の方は持ち込みとかあったんでしょうか?
来てました。林さんのお友達というか、東映動画の若い人が二人くらい。
― 宮崎駿さんは来なかった?(笑)
来なかった。(笑)
― 同人っていえば、林静一さんは、白土さんや水木さんは別格として『ガロ』に描いていた方たちを『ガロ』同人と表現するときがありますね。
同人誌の同人とはぜんぜん意味が違うんじゃないですかね。
― ただ、あのー、『ガロ』は原稿料が出なくなりますよね。それが同人誌的だということで、それで、あえて、そんな表現なのかなとは思うんですけど。
あぁ、なるほどね。ただ71年頃までは原稿料が出ていましたよね。黒字経営でしたから。72、73年くらいから、僕がやめて、しばらくして原稿料が出なくなったようです。
― その頃、つげ義春さんは描いてらしたんでしょうか。
72年、73年はもう描いてないですね。僕が北冬書房を興し、72年に『夜行』を出して、その時につげさんに描いてもらいました。
― 水木プロダクションでの、つげさんのアシスタント※としての役割というのは、どのようなポジションだったんでしょうか?(※つげ義春氏をはじめ、『ガロ』の描き手数名が水木プロでアシスタントを務めた。)
つげさんはいわゆるアシスタントとは違って、特別扱いですね。メインです。主人公まで任されてましたから。
― 人物のペン入れから背景まで・・・
背景はほとんど描かなかった。主要な人物たちですね。ですから、水木さんはつげさんを信頼して大事にしてたんですね。
― つげさんのことは今でも水木さんは気にされていると伺います。本屋さんでみかけると、つげさんの物は必ず買っているそうですね。また、お話が水木さんにつながったところで、この辺でインタビューを終わらせていただきます。『ガロ』を通して、当時の漫画出版について貴重なお話を伺うことができました。ありがとうございました。
(2010年11月18日 於:万力のある家 聞き手:八王子市夢美術館 川俣)

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高野慎三

1940年、東京生まれ。『日本読書新聞』編集部を経て、青林堂に入社。『ガロ』の編集に携わる。山根貞男、梶井純、石子順造らと『漫画主義』創刊。その後、北冬書房を設立し、『夜行』の刊行など独自の出版活動を続ける。筆名「権藤晋」で漫画評論を中心に執筆活動も行う。

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 北冬書房

月刊漫画『ガロ』

1960年を過ぎると、出版業界において、貸本漫画は徐々にその役割を終え、時代は週刊漫画雑誌へと移り、月刊雑誌もその影を潜めていった。現在も続く『少年マガジン』『少年サンデー』がそれぞれ講談社、小学館から創刊されたのが1959年。1960年代には更に続々と週刊漫画雑誌が創刊された。
『ガロ』は、水木しげるの貸本を出版したこともあった長井勝一によって編集・発行された。1964年の創刊だが、月刊誌であり、なによりその誌面の大半を一人の漫画家の作品(白土三平の「カムイ伝」)が占めるという点で、他誌とは大きく異なっていた。貸本漫画から生まれた“劇画” と呼ばれる漫画を掲載し、読者層も高い年齢層を対象とした。白土三平を中心に水木しげる、少し遅れて、つげ義春が主な書き手となり、劇画表現を深化させていく。劇画は、従来子ども向けだった漫画を大人も楽しめるものとし、『ガロ』は当時の若者の心を捉えて多くの読者を得ることとなった。新人発掘にも力を入れ、池上遼一、林静一といった新しい才能が続々登場し、劇画という括りを超えた様々な漫画表現の実験・実践の場といった様相をしめした。その影響は漫画にとどまらず多岐にわたる。
※本展覧会及び本インタビューでは触れていませんが、貸本漫画以前に『赤本』と呼ばれた漫画があったことを付記します。
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